元オウム信者の無罪判決 東洋経済の「高裁の理由づけは説得力があるといえるか」は問題
- 2015/12/14
- 08:58
元オウム信者に対する東京高裁の無罪判決においては、端的にあれは有罪だという論調と、裁判員裁判の否定だという2つの批判があります。
この両者は両立する関係でもありますが、次元の異なるものです。
さて、裁判員裁判の否定だというもの中に東洋経済が記事がありました。
「オウム逆転無罪判決で揺れる「裁判員」の意義 高裁の理由づけは説得力があるといえるか」(東洋経済2015年12月11日)
上記東洋経済記事は、識者の声をつなぎ合わせるような構成を展開し、「裁判員制度の意義が問われる」と結んでいます。
しかし、有罪を無罪にした控訴審判決というだけで裁判員制度の存在意義が問われるとする論調が正しいならば、有罪を尊重しろでは、刑事裁判の存在意義の否定でしかありません。
裁判員制度>刑事裁判
という図式では本末転倒なのですが、このような主張をしているようにしか見えないのです。
この東洋経済の中で、「紀藤正樹弁護士は、「判決の全文を読んだが、具体性に乏しい理由づけで、一審の裁判員裁判での判断を否定している。裁判員裁判の不合理性を指摘するだけでは、姿勢が後ろ向きで、未来につながる判決とは思えない」」とし、その根拠は、後の方に出てくるのですが、「今回であれば、無罪推定の原則や、『疑わしきは被告人の利益に』といった刑事裁判の大原則から説き起こして論じられているのであれば、理解しやすい。しかし、判決はやはり単に裁判員裁判の判断を批判しているだけのように感じられる。これでは、税金によって刑事裁判を運営している国民にとっても不幸な判決になってしまう」と結んでいます。
原審判決が批判的に検討されることは当然のことなのですが、私自身は判決要旨しか読んではいませんが、決して不合理な理由付けには思えません。
「菊地直子被告、無罪判決要旨」(朝日新聞2015年11月28日)
そもそも「姿勢が後ろ向きで、未来につながる判決とは思えない」というのですが、意味が全くわかりません。「未来」ってどこに導かれるのでしょうね。バラ色の裁判員制度でしょうか。
紀藤氏は、ご自身のブログでは、「菊地直子高裁判決の参考判例=裁判員裁判無罪判決を破棄自判した高裁判決を再逆転させた最高裁無罪判決に関する東京弁護士会の会長声明」(弁護士紀藤正樹のLINC TOP NEWS-BLOG版)を紹介していますが、紀藤氏が下線を引いた東京弁護士会会長声明の「本件とは逆に裁判員裁判で第1審が有罪判決を出した場合には,控訴審は,検察官の立証が合理的な疑いを差し挟む余地がない程度に尽くされているのかどうかをあらためて吟味しなければならない。そのことこそが,万一にも無辜の者を罰することがあってはならないという刑事訴訟の基本原則に忠実な事後審のあり方というべきである。本件最高裁判決は,そのような場合にも控訴審が第1審判決を尊重すればよいという考えを示したものとは解されない。」の部分こそが重要なのですが、東洋経済の論調と同じ趣旨には読めないのですが、さてどうなのでしょう。
無罪判決の中核にされたものの中では井上証人の証言の信用性が否定されたわけですが、17年前のことが詳細であることをもって信用できないとした点をとらえ、東洋経済はこの点を批判しています。
「確かに、限定された人間関係の中で行われていたことなら、17年前のことでも記憶が残っていても不思議ではない。また、井上死刑囚は松本に次ぐ司令塔の立場にあり、オウムの関与した一連の事件について全体像を把握していた。「オウム事件に関与した内部の人間は、事件のことしか頭に残っていない」(元検察官の新庄健二弁護士)ことが多く、井上死刑囚は特にその傾向が強かったという。さらに東京都庁小包爆弾事件は、行政の中枢を狙ったテロ事件であって、小さい事件であると言えるかは評価が分かれるところだろう。」
高裁判決は、単に井上証人の証言が具体的過ぎるから否定しているわけではなく、教団の地位やその他の証人との付合性などを検討した上で、信用できないとしているわけで、決して、言われているよな具体的、詳細だからという理由だけではありません。またその信用性について「17年前のことでも記憶が残っていても不思議ではない」という程度のものであれば心許ないわけで、疑義があるのであれば、疑わしきは罰せずの観点からはやはり当然に信用性を否定すべきものです。
しかも、やはりそれでも17年は大きすぎるのです。人間の記憶がそこまで詳細に覚えているのかという点については、疑わしきは罰せずの観点から批判的に検討されなければならないことは当然のことです。
それにこの検証は、裁判員裁判の口頭主義なるものは裁判員裁判の有罪判決を正当化する根拠にはなり得ません。
東洋経済は次のように述べます。
「(井上証言の信用性を否定したことについて)なぜ「具体的に」理由を示す必要があるかというと、第1審においては、直接主義・口頭主義の原則が採られており、争点に関する証人を、裁判官が実際に目の前で見ており、その時の証言での態度なども踏まえて、供述の信用性が判断されているためだ。書面だけで審理する2審とは異なるのである。
さらに、最高裁は「このことは、裁判員制度の導入を契機として、第1審において直接主義・口頭主義が徹底された状況においては、より強く妥当する」と述べている。」
証人の態度などからも心証を得ることは一般的に言われていることですが、そもそも裁判員がその態度から心証を得たということもフィクションに過ぎず、この東洋経済の論調は、単に裁判員の判断を尊重することを正当化するためだけの概念として用いられているものでしかありません。
むしろ具体的かつ詳細だから信用性があるとなりがちというだけであって、実際の証言者を見ているだけで、一体、どの程度の判断ができるのか疑問です。
持ち出される最高裁判決は、裁判員の無罪判決を前提にしたもので、刑事裁判では疑わしきは罰せずの大原則があるのですから、最高裁判決がそのまま当然に妥当する射程ではありません。
「オウム真理教元信者に対する無罪判決 東京高検による上告は不当だ」
今回の東京高裁の無罪判決を裁判員制度の否定だという論調は見かけますが、法曹関係者以外の人たちの発言ならまさに「感覚」なのですから、そうなるだろうなというものなのですが、しかし、法曹関係者であれば、仮に裁判員制度を絶賛する立場であろうと、今回の有罪判決を裁判員裁判だから尊重しろなどというのはあまりに愚かです。
有罪という判断が「感覚」であってよいはずがなく、少なくとも無罪という形で控訴審が是正するのは当然の役割なのですから、これが受け入れられない法曹は、裁判員制度に傾倒しすぎです。
「死刑判決破棄の高裁判決に対し検察が上告を断念 裁判員裁判の破綻」
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この両者は両立する関係でもありますが、次元の異なるものです。
さて、裁判員裁判の否定だというもの中に東洋経済が記事がありました。
「オウム逆転無罪判決で揺れる「裁判員」の意義 高裁の理由づけは説得力があるといえるか」(東洋経済2015年12月11日)
上記東洋経済記事は、識者の声をつなぎ合わせるような構成を展開し、「裁判員制度の意義が問われる」と結んでいます。
しかし、有罪を無罪にした控訴審判決というだけで裁判員制度の存在意義が問われるとする論調が正しいならば、有罪を尊重しろでは、刑事裁判の存在意義の否定でしかありません。
裁判員制度>刑事裁判
という図式では本末転倒なのですが、このような主張をしているようにしか見えないのです。
この東洋経済の中で、「紀藤正樹弁護士は、「判決の全文を読んだが、具体性に乏しい理由づけで、一審の裁判員裁判での判断を否定している。裁判員裁判の不合理性を指摘するだけでは、姿勢が後ろ向きで、未来につながる判決とは思えない」」とし、その根拠は、後の方に出てくるのですが、「今回であれば、無罪推定の原則や、『疑わしきは被告人の利益に』といった刑事裁判の大原則から説き起こして論じられているのであれば、理解しやすい。しかし、判決はやはり単に裁判員裁判の判断を批判しているだけのように感じられる。これでは、税金によって刑事裁判を運営している国民にとっても不幸な判決になってしまう」と結んでいます。
原審判決が批判的に検討されることは当然のことなのですが、私自身は判決要旨しか読んではいませんが、決して不合理な理由付けには思えません。
「菊地直子被告、無罪判決要旨」(朝日新聞2015年11月28日)
そもそも「姿勢が後ろ向きで、未来につながる判決とは思えない」というのですが、意味が全くわかりません。「未来」ってどこに導かれるのでしょうね。バラ色の裁判員制度でしょうか。
紀藤氏は、ご自身のブログでは、「菊地直子高裁判決の参考判例=裁判員裁判無罪判決を破棄自判した高裁判決を再逆転させた最高裁無罪判決に関する東京弁護士会の会長声明」(弁護士紀藤正樹のLINC TOP NEWS-BLOG版)を紹介していますが、紀藤氏が下線を引いた東京弁護士会会長声明の「本件とは逆に裁判員裁判で第1審が有罪判決を出した場合には,控訴審は,検察官の立証が合理的な疑いを差し挟む余地がない程度に尽くされているのかどうかをあらためて吟味しなければならない。そのことこそが,万一にも無辜の者を罰することがあってはならないという刑事訴訟の基本原則に忠実な事後審のあり方というべきである。本件最高裁判決は,そのような場合にも控訴審が第1審判決を尊重すればよいという考えを示したものとは解されない。」の部分こそが重要なのですが、東洋経済の論調と同じ趣旨には読めないのですが、さてどうなのでしょう。
無罪判決の中核にされたものの中では井上証人の証言の信用性が否定されたわけですが、17年前のことが詳細であることをもって信用できないとした点をとらえ、東洋経済はこの点を批判しています。
「確かに、限定された人間関係の中で行われていたことなら、17年前のことでも記憶が残っていても不思議ではない。また、井上死刑囚は松本に次ぐ司令塔の立場にあり、オウムの関与した一連の事件について全体像を把握していた。「オウム事件に関与した内部の人間は、事件のことしか頭に残っていない」(元検察官の新庄健二弁護士)ことが多く、井上死刑囚は特にその傾向が強かったという。さらに東京都庁小包爆弾事件は、行政の中枢を狙ったテロ事件であって、小さい事件であると言えるかは評価が分かれるところだろう。」
高裁判決は、単に井上証人の証言が具体的過ぎるから否定しているわけではなく、教団の地位やその他の証人との付合性などを検討した上で、信用できないとしているわけで、決して、言われているよな具体的、詳細だからという理由だけではありません。またその信用性について「17年前のことでも記憶が残っていても不思議ではない」という程度のものであれば心許ないわけで、疑義があるのであれば、疑わしきは罰せずの観点からはやはり当然に信用性を否定すべきものです。
しかも、やはりそれでも17年は大きすぎるのです。人間の記憶がそこまで詳細に覚えているのかという点については、疑わしきは罰せずの観点から批判的に検討されなければならないことは当然のことです。
それにこの検証は、裁判員裁判の口頭主義なるものは裁判員裁判の有罪判決を正当化する根拠にはなり得ません。
東洋経済は次のように述べます。
「(井上証言の信用性を否定したことについて)なぜ「具体的に」理由を示す必要があるかというと、第1審においては、直接主義・口頭主義の原則が採られており、争点に関する証人を、裁判官が実際に目の前で見ており、その時の証言での態度なども踏まえて、供述の信用性が判断されているためだ。書面だけで審理する2審とは異なるのである。
さらに、最高裁は「このことは、裁判員制度の導入を契機として、第1審において直接主義・口頭主義が徹底された状況においては、より強く妥当する」と述べている。」
証人の態度などからも心証を得ることは一般的に言われていることですが、そもそも裁判員がその態度から心証を得たということもフィクションに過ぎず、この東洋経済の論調は、単に裁判員の判断を尊重することを正当化するためだけの概念として用いられているものでしかありません。
むしろ具体的かつ詳細だから信用性があるとなりがちというだけであって、実際の証言者を見ているだけで、一体、どの程度の判断ができるのか疑問です。
持ち出される最高裁判決は、裁判員の無罪判決を前提にしたもので、刑事裁判では疑わしきは罰せずの大原則があるのですから、最高裁判決がそのまま当然に妥当する射程ではありません。
「オウム真理教元信者に対する無罪判決 東京高検による上告は不当だ」
今回の東京高裁の無罪判決を裁判員制度の否定だという論調は見かけますが、法曹関係者以外の人たちの発言ならまさに「感覚」なのですから、そうなるだろうなというものなのですが、しかし、法曹関係者であれば、仮に裁判員制度を絶賛する立場であろうと、今回の有罪判決を裁判員裁判だから尊重しろなどというのはあまりに愚かです。
有罪という判断が「感覚」であってよいはずがなく、少なくとも無罪という形で控訴審が是正するのは当然の役割なのですから、これが受け入れられない法曹は、裁判員制度に傾倒しすぎです。
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