新藤宗幸先生の法科大学院制度に対する見解 これでは法科大学院制度は失敗する
- 2016/06/08
- 09:32
朝日新聞のWEBRONZAの「岐路に立つ法科大学院」というテーマで、私の論考も掲載していただきました。
http://webronza.asahi.com/national/themes/2016053000006.html
私の論考
「法科大学院制度は、廃止を決断すべきとき」
この「岐路に立つ法科大学院」では新藤宗幸先生の論考も掲載されています。
私はWEBRONZAの会員ではないため全文は読めないのですが、読める範囲で読んだところでは、新道先生の見解は、大学人としての利害が剥き出しでした。
「法曹養成の新しいシステムを真摯に構想し、設計を文科省は74もの法科大学院を認可した責任をどう総括しているのか」
以下のこの部分を読んでどう思われたでしょうか。
「法科大学院構想は98年ごろから実定法を中心とする法学者のあいだで議論されだした。これが登場してきた背景は、たんに法曹人口の増員の必要性にあったのではない。国家試験のなかでも最難関試験といわれる司法試験受験者の多くは、受験予備校に通い過去問を素材とした受験技術のみを学んでおり、法曹としての素養や知識に欠けると指摘されてきた。
こうした状況は、大学法学部における民法や刑法、訴訟法などの実定法担当者からみれば、法学部教育の形骸化=危機と映る。この「失地回復」のために大学主導の法曹養成組織を必要とする声が高まった。また、経済界や弁護士界の一部からも、折からの経済のグローバル化に応えられる国際的視野と訴訟の学識をもった法曹の必要性が説かれた。」
司法試験を受験する者が受験技術のみを学んでおりという部分ですが、法科大学院制度を推進してきた側からは、決まり文句のように出てきます。
試験があれば一定、受験技術が受験予備校によって体系化されていくことは必然なのですが、これは何も司法試験に限った問題ではありません。大学入試から高校入試などあらゆる分野で受験技術化しています。
何よりも法科大学院制度ができたあとも一向にこの傾向がなくなることはありません。
「司法試験は暗記だそうです 佐藤大和氏の「ずるい暗記術―――偏差値30から司法試験に一発合格できた勉強法」」
(早稲田大学大学院法務研究科須網隆夫教授も同様に「受験技術が~」と言っています。)
大学側は、これを法科大学院制度創設の正当化のための口実にしただけです。
これが「法学部教育の形骸化=危機と映る」などという分析に至ったのは、全くわかりませんが、本当にその当時、法学部の当事者に危機意識などあったのですか。今さらながらに驚かされる発言です。
そして、新道先生の表現は、「失地回復」だそうです。利害が露骨すぎます。
法科大学院制度によって「失地回復」など所詮は妄想にすぎませんし、ましてや新道先生がいうところの「法学部教育の形骸化=危機と映る」が出発点であったのであれば、少なくとも法学部の講義の延長レベルという内容としての形骸化など招きはしません。
これで一体、何が大学主導なのでしょうか。法科大学院ができても、一橋大学の後藤昭先生のように一部の教員は本当に精力的に学生に向き合っていますが、多くは従来の大学の延長線上でしかありません。後藤先生が他の教員に対して不満を口にされていた気持ちはよくわかります。
法科大学院制度の崩壊は、法学部の人気低下にまで波及する最悪の結果になっています。
要は「失地回復」などと今になって「分析」しているのは後付けの理由もいいところです。
むしろ、文科省が推進した専門職大学院制度により新たな利権を握ったことによって生まれたのが法科大学院制度です。
従って、そこには最初から「理念」すらもなかったのです。あったのは「利権」だけです。
新道先生は、「バスに乗り遅れるな」という発想のもとで全国の多くの大学が法科大学院設立に走り、文科省がそれを認可したことを問題にしています。
しかし、この分析が正しいのでしょうか。
「当時、私は立教大学法学部のスタッフだったが、さきの「最終意見書」を前後するころから、実定法学者たちのフィーバーぶりはすさまじかった。「法科大学院がなければ法学部の存続にかかわる」「バスに乗り遅れるな」とばかりに設置に「邁進」していった。こうした状況は他の大学でも変わらない。スタッフの引き抜き合戦が展開されるとともに、法科大学院のために新たな校舎を建築した大学も少なくない。」
フィーバーではないです。法学部としての生き残りをかけた必死感です。憐れなまでの必死感です。もともと法学部はマスプロ授業を主体としたもので学部単位でみればドル箱の学部です。
それが法科大学院という金食い虫が突如として現れ、しかも法科大学院と直結しなければその大学の法学部の評価まで下がる(要は、高校生の選択肢から外されるということ)という危機感のもと、創設に走らされたという程度のことであって、「熱狂」とはほど遠い姿です。
「熱狂」していたのは、一部の法科大学院を信奉する人たちだけであって、多くの関係者は、上からの大号令に振り回されただけです。「反対」の声を上げることもできず、さりとて積極的に賛同するわけでもない教員が圧倒的に多かったにすぎません。
大学内部もこの国の政治の縮図でしかなく、「熱狂」していた後藤先生をして他の教員(後藤先生が在籍されていた大学に限ったものではないと思います)の姿勢に不満を感じる状況でしかなかったことが全てを物語っています。
法科大学院制度の失敗は、こうした「熱狂」した人たちこそ責任を取るべきではありませんか。
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私の論考
「法科大学院制度は、廃止を決断すべきとき」
この「岐路に立つ法科大学院」では新藤宗幸先生の論考も掲載されています。
私はWEBRONZAの会員ではないため全文は読めないのですが、読める範囲で読んだところでは、新道先生の見解は、大学人としての利害が剥き出しでした。
「法曹養成の新しいシステムを真摯に構想し、設計を文科省は74もの法科大学院を認可した責任をどう総括しているのか」
以下のこの部分を読んでどう思われたでしょうか。
「法科大学院構想は98年ごろから実定法を中心とする法学者のあいだで議論されだした。これが登場してきた背景は、たんに法曹人口の増員の必要性にあったのではない。国家試験のなかでも最難関試験といわれる司法試験受験者の多くは、受験予備校に通い過去問を素材とした受験技術のみを学んでおり、法曹としての素養や知識に欠けると指摘されてきた。
こうした状況は、大学法学部における民法や刑法、訴訟法などの実定法担当者からみれば、法学部教育の形骸化=危機と映る。この「失地回復」のために大学主導の法曹養成組織を必要とする声が高まった。また、経済界や弁護士界の一部からも、折からの経済のグローバル化に応えられる国際的視野と訴訟の学識をもった法曹の必要性が説かれた。」
司法試験を受験する者が受験技術のみを学んでおりという部分ですが、法科大学院制度を推進してきた側からは、決まり文句のように出てきます。
試験があれば一定、受験技術が受験予備校によって体系化されていくことは必然なのですが、これは何も司法試験に限った問題ではありません。大学入試から高校入試などあらゆる分野で受験技術化しています。
何よりも法科大学院制度ができたあとも一向にこの傾向がなくなることはありません。
「司法試験は暗記だそうです 佐藤大和氏の「ずるい暗記術―――偏差値30から司法試験に一発合格できた勉強法」」
(早稲田大学大学院法務研究科須網隆夫教授も同様に「受験技術が~」と言っています。)
大学側は、これを法科大学院制度創設の正当化のための口実にしただけです。
これが「法学部教育の形骸化=危機と映る」などという分析に至ったのは、全くわかりませんが、本当にその当時、法学部の当事者に危機意識などあったのですか。今さらながらに驚かされる発言です。
そして、新道先生の表現は、「失地回復」だそうです。利害が露骨すぎます。
法科大学院制度によって「失地回復」など所詮は妄想にすぎませんし、ましてや新道先生がいうところの「法学部教育の形骸化=危機と映る」が出発点であったのであれば、少なくとも法学部の講義の延長レベルという内容としての形骸化など招きはしません。
これで一体、何が大学主導なのでしょうか。法科大学院ができても、一橋大学の後藤昭先生のように一部の教員は本当に精力的に学生に向き合っていますが、多くは従来の大学の延長線上でしかありません。後藤先生が他の教員に対して不満を口にされていた気持ちはよくわかります。
法科大学院制度の崩壊は、法学部の人気低下にまで波及する最悪の結果になっています。
要は「失地回復」などと今になって「分析」しているのは後付けの理由もいいところです。
むしろ、文科省が推進した専門職大学院制度により新たな利権を握ったことによって生まれたのが法科大学院制度です。
従って、そこには最初から「理念」すらもなかったのです。あったのは「利権」だけです。
新道先生は、「バスに乗り遅れるな」という発想のもとで全国の多くの大学が法科大学院設立に走り、文科省がそれを認可したことを問題にしています。
しかし、この分析が正しいのでしょうか。
「当時、私は立教大学法学部のスタッフだったが、さきの「最終意見書」を前後するころから、実定法学者たちのフィーバーぶりはすさまじかった。「法科大学院がなければ法学部の存続にかかわる」「バスに乗り遅れるな」とばかりに設置に「邁進」していった。こうした状況は他の大学でも変わらない。スタッフの引き抜き合戦が展開されるとともに、法科大学院のために新たな校舎を建築した大学も少なくない。」
フィーバーではないです。法学部としての生き残りをかけた必死感です。憐れなまでの必死感です。もともと法学部はマスプロ授業を主体としたもので学部単位でみればドル箱の学部です。
それが法科大学院という金食い虫が突如として現れ、しかも法科大学院と直結しなければその大学の法学部の評価まで下がる(要は、高校生の選択肢から外されるということ)という危機感のもと、創設に走らされたという程度のことであって、「熱狂」とはほど遠い姿です。
「熱狂」していたのは、一部の法科大学院を信奉する人たちだけであって、多くの関係者は、上からの大号令に振り回されただけです。「反対」の声を上げることもできず、さりとて積極的に賛同するわけでもない教員が圧倒的に多かったにすぎません。
大学内部もこの国の政治の縮図でしかなく、「熱狂」していた後藤先生をして他の教員(後藤先生が在籍されていた大学に限ったものではないと思います)の姿勢に不満を感じる状況でしかなかったことが全てを物語っています。
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