川崎で起きたヘイトデモに対して、カウンターデモ側が「シットイン」という方法で対抗、ヘイトデモは前進できず、警察の説得を受け入れ中止を決めた、この事件に関しては、この間、私は意見表明をしてきました。
「
ヘイトスピーチの実力阻止は行き過ぎ 警察が味方と思ったら大間違い」
これに対する批判はいくつかありますが、まずは、以下の批判について検討します。
カウンターデモ側は、シットインという方法を採ったが、その時点では警察権力が「庇護」してくれるかどうかはわからない緊張感があった、結果として警察権力がカウンターデモ側を排除(逮捕)等をしなかったということであって、「一体」という評価は当たらないのではないか。 |
なるほど、それまではヘイトデモに対抗していたカウンターデモ側の「実力行使」に対し、警察はヘイトデモを「守る」という立場からそのカウンターデモ側の「実力行使」を実力をもって排除してきました。
このような流れの中で、ヘイトスピーチ対策法ができたからといって、直ちに警察の対応が変わるのかどうかは確かに確定はしていません。
では、だからといって今回の排除は「一体」ではないと言えるのかどうかといえば、私はやはり「一体」であると評価せざるを得ません。
従来よりそのような行動(もっと過激だったようです)を取りつつ、警察に排除され、しかし、今回は、ヘイトデモ側が10人強、対するカウンターデモ側は数百人というのですから、これで取り囲むだけであからさまな実力阻止です。
最初にシットインを実行し、次々ということになるわけですが、その過程で既に警察権力が黙認状態であったというこは当然、認識できるわけだし、警察が手を出さない状況下で、なおこのシットインを継続しているのですから、これは警察は手を出さないという認識のもとでの実施というべきものです。
数百人が10数人を取り囲んでという状況下でのシットインは、本来、このような実力阻止を排除すべき警察も黙認するだけという中で、少なくとも、これに対する評価としては、「警察と一体」と言われても仕方のない行動だったということでもあります。
ヘイトスピーチ対策法により警察の対応が変わったというのはその通りですが、警察というものが体制擁護のための実力機関であることまで変わったわけではありません。
あくまで黙認でしかありません。
警察によるヘイトデモ中止の要請も結局のところ、混乱回避以上のものではありません。
従って、神原元氏の次のコメントは、警察権力の後ろ盾を自認しているようなものであり、警察権力が単に黙認していた(つまりは警察権力の手のひらの上)に過ぎないということを無視した立論です。
これまではシットインは引きはがされて、放り投げられ、けがもさせられていたが、今日はご覧のような対応。法律ができて、警察もヘイトスピーチは違法であるとう前提で対処したのだと思う。 日本の歴史にない、民衆の正義が悪に勝った瞬間だ。現場で戦ってきた人たちが社会を変えた |
警察権力の黙認のもとで行われた実力阻止が「民衆の正義が悪に勝った」などという評価にはなり得ません。そのような実力阻止の争いをもって「勝った」などと評価するのは、自分たちの気に入らない言動は力で潰すと言っているだけであり、暴論以外なにものでもありません。
ここでの問題点は2つあります。
1つは、警察権力の黙認のもとで敢行されたにすぎないシットインという実力行使(取り囲みも同様)をあたかも自分たちの勝利だとしている点で警察権力の肥大化への片棒を担いだにすぎないこと。
もう1つは、自分たちの気に入らない言論表明に対しては、警察権力の黙認という状況下のもとで敢行した実力阻止行動は、このような人たちが政権に関わったら、必ずや同じことをするだろうという懸念を国民にもたらしたこと。
結果として警察の黙認があったというだけでなく、それをカウンターデモ側が積極的に肯定評価してしまうところが、重大な問題であり、このような言動に対する批判は不可欠です。
「
批判勢力が自壊していくとき 声だけが大きい人たちが主導する勢力の限界」
続編です。
「
「警察権力と一体」となったカウンターデモ 再度の検証②」
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