交際女性を殺害し、遺体を切断した事件で、宮崎地裁(裁判員裁判)は、無期懲役の判決(求刑25年)を下しました。しかし、福岡高裁宮崎支部は、無期懲役の判決を破棄、懲役25年の判決を言い渡しました(2017年4月27日)。
無期懲役は明らかに重い判決ですが、高裁が重すぎるとして破棄したのは、むしろ当然の結果といえるでしょう。
これに対する批判的な記事がこれです。
「
遺体切断 判例重視に当惑 関係者「裁判員制度いらない」 控訴審判決 /宮崎」(毎日新聞2017年4月28日)
「判例を重視した判決に、関係者からは「裁判員裁判は必要ないのでは」「当時公平に判断できていなかったかもしれない」などの声が上がった。【宮原健太、塩月由香】」
未だにこのような記事の掲載の仕方をしていること自体、驚きです。
既に最高裁判決では、量刑については一定の枠組みを示しています。
事案は、両親が子に虐待したの結果、死亡させたものですが、父母への求刑が10年に対し、裁判員裁判はどちらも懲役15年とし、高裁もその判断を支持、被告人側が上告していたものです。最高裁平成26年7月24日判決ですが、懲役15年とした判決を破棄、父に10年、母に8年の判決を下しました。
わかりやすいので抜粋します。
「我が国の刑法は、一つの構成要件の中に種々の犯罪類型が含まれることを前提に幅広い法定刑を定めている。その上で、裁判においては、行為責任の原則を基礎としつつ、当該犯罪行為にふさわしいと考えられる刑が言い渡されることとなるが、裁判例が集積されることによって、犯罪類型ごとに一定の量刑傾向が示されることとなる。そうした先例の集積それ自体は直ちに法規範性を帯びるものではないが、量刑を決定するに当たって、その目安とされるという意義をもっている。量刑が裁判の判断として是認されるためには、量刑要素が客観的に適切に評価され、結果が公平性を損なわないものであることが求められるが、これまでの量刑傾向を視野に入れて判断がされることは、当該量刑判断のプロセスが適切なものであったことを担保する重要な要素になると考えられるからである。
この点は、
裁判員裁判においても等しく妥当するところである。裁判員制度は、刑事裁判に国民の視点を入れるために導入された。したがって、量刑に関しても、裁判員裁判導入前の先例の集積結果に相応の変容を与えることがあり得ることは当然に想定されていたということができる。その意味では、裁判員裁判において、それが導入される前の量刑傾向を厳密に調査・分析することは求められていないし、ましてや、これに従うことまで求められているわけではない。しかし、裁判員裁判といえども、他の裁判の結果との公平性が保持された適正なものでなければならないことはいうまでもなく、評議に当たっては、これまでのおおまかな量刑の傾向を裁判体の共通認識とした上で、
これを出発点として当該事案にふさわしい評議を深めていくことが求められているというべきである。」
「これを本件についてみると、指摘された社会情勢等の事情を本件の量刑に強く反映させ、これまでの量刑の傾向から踏み出し、公益の代表者である検察官の懲役10年という求刑を
大幅に超える懲役15年という量刑をすることについて、具体的、説得的な根拠が示されているとはいい難い。その結果、本件第1審は、甚だしく不当な量刑判断に至ったものというほかない。同時に、法定刑の中において選択の余地のある範囲内に収まっているというのみで合理的な理由なく第1審判決の量刑を是認した原判決は、甚だしく不当であって、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められる。」
最高裁判決の枠組みは明快であって、裁判員裁判では厳密な量刑事情まで調査、分析することは求められてはいないものの、他の裁判との公平性が保持された適正なものでなければならず、検察官の求刑を大幅に超える量刑としたことについて具体的、説得的な根拠を示すことが必要だとするものです。
感覚的に法定刑の中で収まっていればいいというものでないことは当然のことで、それは死刑判決に限られないということです。
「
裁判員の暴走への歯止めになる? 最高裁 量刑不当を是正」
ところが毎日新聞の記事は、この裁判員裁判に関わった元裁判員の意見も含め、次のように掲載しています。
「判決後、1審で裁判員を務めた宮崎市の50代男性は「無期懲役は一般市民だけでなく裁判官とも話し合って出した結論だ。過去の判例で量刑を決めるなら制度自体を見直した方がいい」と話し、同じく県内の女性(59)は「裁判では被害者寄りになり公平に判断できなかったのかもしれない。被告にはずっと刑務所にいてほしい気持ちもある」と述べた。」
話し合ったと言いますが、この裁判員裁判を仕切った裁判長は、裁判員を説得できなかったのでしょう。この元裁判員は、そもそも制度の意味を誤解しているし、それをそのまま報じる毎日新聞もどうかしています。
というより、この記事を書いた記者が裁判員制度の目的を理解していないからこそ、このような元裁判員の感想を利用する形で報じているともいえます。
裁判員制度の導入を提唱した司法審意見書には、このように記載されています。
「21世紀の我が国社会において、国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。国民主権に基づく統治構造の一翼を担う司法の分野においても、国民が、自律性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について、多様な形で参加することが期待される。」
要は国民としての責務を果たせということです。量刑をそのまま尊重せよということではありません。
「
国政モニターからの裁判員制度に対する疑問 疑問に正面から答えない法務省」

最高裁の見解(参照)
「
● どうして裁判員制度を導入したのですか。
類似 これまでの裁判に何か問題があったのですか。」
この被害者側のコメントを掲載したことについても同様に、本当に裁判員制度の目的がわかっているのかが問われます。
「被害者遺族は弁護士を通して「いまだに娘の死を受け止められない。1審の裁判員の苦労は何だったのか」とコメント。遺族側弁護士の一人は「過去の量刑を非常に重視した判決だ。量刑傾向をみるだけだったら裁判員はいらないのでは」と話した。」
一番、問題なのは、この宮崎産業経営大の
雨宮敬博准教授の見解です。
「裁判を傍聴した宮崎産業経営大の雨宮敬博准教授(刑法)は「量刑不当で1審判決を控訴審で破棄するケースは、裁判員裁判で出た市民感覚を尊重して減っている。非常に珍しい判決だ」と語った。」
本当に裁判員裁判の量刑がどのように推移しているのか、ご存知なのでしょうか。研究者とは思えないコメントです。ここで問われているのは、
求刑を大幅に超える判決の是非です。
最高裁平成26年7月24日判決が出る前は、そもそも裁判員裁判の判決だからという理由で控訴を棄却する判決が多く見られました。
しかし、この最高裁によって平成26年判決が出されて以降は、裁判員裁判の判決は、この最高裁判決の枠組みで判断しますから、
求刑を大幅に超えるような判決は基本的にはなくなっていきます。
だから量刑不当を理由に破棄する高裁判決が減っているのです。
決して雨宮准教授が言うように「裁判員裁判で出た市民感覚を尊重して」いるから減っているのではありません。
従って、高裁判決が珍しいのではなく、大幅に求刑を超える宮崎地裁の裁判員裁判の判決の方が珍しいのです。
未だにこのような報じられ方、理解のされた方をしているということからも裁判員制度の弊害は大きいといえ、そのような観点からも制度は廃止されるべきものといえます。
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