北海道新聞2018年12月5日付朝刊に「水曜討論 裁判官の「表現の自由」とはとして、二人の法曹のコメントが掲載されています。
批判的な見解として札幌弁護士会の作間豪昭さん、肯定的な見解として千葉勝美氏(元最高裁判事)です。
千葉氏の見解は、品位とは結局のところ、公平・中立らしさを求めるばかりで全く無内容なものです。
千葉氏の見解の中でこの部分が象徴的でした。
「
「この裁判官は公平中立な判断をしてくれる」と思ってもらえる姿勢が何よりも大切なのです」
「
「私生活ではいろいろと言っていますが、裁判は公平中立です」と言っても、当事者は信用できないでしょう」
このような発言自体に私は嫌悪感しかありません。最低レベルの発言です。
公平中立な判断をしてくれるかと思ってもらうために私生活での発言を控えろと言っているだけです。
全くよく言うよです。公平、中立かどうかを判断するのは、訴訟の当事者にとって裁判官がどのような訴訟指揮を行うのか、どのような判決を下すのかでしかありません。
普段の私生活で黙りを決め込んだ裁判官だから信用するとでも思っているのでしょうか。
裁判官が私生活で何も発言しなかったからといって、何も考えていないわけではなく、それに対してどのように考えるのかという価値観はあって当たり前なんです。
そういう価値観が表に出てくるのが、審理段階では訴訟指揮であり、そして結論としての判決なのですから、裁判以外は黙っているから公平・中立だなどというのは滑稽の極みです。
それとも裁判官は社会生活上のこうした新聞記事にも全く何も考えていないとでもいうのですか。
普段、考えているのは出世だけですか。
さすが最高裁判事まで出世された方。この見解が最高裁の元判事だというのだから、裁判所の姿勢がよくわかるというものです。
形式的な公平らしさは非常に気にする、しかし、実際の訴訟指揮は「裁量」の名の下に公平などすっ飛ばして審理を進めていく、そういうことでしょうかね。
極めつけがこれ。
「
どんな裁判の判決も機械的には書けず、裁判官は日々悩んでいます」
こういうことを言われてしまうと、なおさら火に油を注ぐと言いますが、怒りさえ感じます。
現実に悩むって何ですか。人間的な苦悩のことですか。当事者じゃないのにね。
そうじゃないですよね。どうやったら、控訴審や上告審で自分の判決が破られないかを悩んでいるんですよね。
10年以上も前ですが、結審する際、「そういう判決にしたら上に怒られちゃう」と公開法廷で発言した裁判官がいました。当事者への説明としてどうなのかなあと思いつつ、本音なんだなと思いました。そこに悩む姿は感じませんでしたけれどね。
どうやったら上級審で破られないか… 時間もないし判決言渡後に書くかな
悪質商法がらみの裁判では、確かに裁判官によっては、これは絶対良くないでしょという価値観をもって臨まれていた方もいました。しかし、全く逆の裁判官もいますし、その方が多いんじゃないでしょうか。契約書にハンコを押した以上、責任が生じるのは当たり前とね。
その典型が次々商法、過量販売です。宝石や呉服を次々に販売するのですが、その額が数百万円から1000万円にもなるのですが、割賦販売法の平成20年改正前は信販会社も高齢者に平気でローンを通していましたから、資力のない主婦などもこういった次々商法の食い物にされていました。
こんな販売方法に社会的妥当性はなく、しかし、当時は過量販売を正面から規定した法律はないため、民法90条の公序良俗に反する暴利行為として裁判を闘っていました。しかし、こうしたことで正面から暴利だと認定された判決は数少なく(私の関わった中ではありません)、社会問題となってから立法的にクレジット会社の自主規制と加盟店管理責任の強化(割賦販売法の改正)によって、こうした次々商法が急速に解決していきました。裁判所がこの問題に積極的な役割を果たしたということはありません。
中には判決になると信販会社を勝たせてしまう、それなら妥当な範囲で和解で解決しようと努力されていた裁判官はいました。それはそれで「悩み」ということになるのかもしれませんね。
とはいえ、そういった「悩み」を持つ裁判官よりも自由主義経済社会(過量販売であろうとどんな契約であろうと自己責任)の守護神のような裁判官の方が圧倒的に多いです。
労働組合に関する事件では、労働組合に対する無理解な裁判官どころか(これは私も経験しています)、敵意を見せる裁判官の訴訟指揮に当たることも聞きます。学生時代に読んだ裁判例ですが、労働組合に対する偏見そのものの高裁判決に驚かされました。
イデオロギー剥き出しじゃないですか。最高裁は上告理由にあたらないとして不受理。
やっぱりここでも自由主義社会経済、つまり企業側の守護神なんですよね。
千葉氏のいう「悩み」は苦悩的な意味合いで使われていますが、そういった意味では、裁判官が悩んでいる姿など全く想像ができませんし、私自身、そのような裁判官像は求めていません。それでは、むしろ一方当事者に対する肩入れ、思い入れとどこが違いますか? それこそ中立性に反してやいませんか。
求められていることは、事件の概要をつかみ、社会常識に従った価値判断であり、事実認定です。このおばあちゃんに1000万円もの呉服を売りつけるやり方が市場原理社会の中であろうと許容していいのかという価値判断です。労働組合にも偏見を持たない価値観です。それを淡々と判断してくれればいいだけです。千葉氏が言っているようなことは、「
裁判官って何て人間的なんでしょう」という姑息なアピールでしかなく、現場の裁判官は苦笑いじゃないでしょうか。
私も裁判以外の場で裁判官と話すこともありますが、それこそ人柄は表れるものであり、そういったことでその裁判官を信用しない、できないなどと思ったことは全くありません。判決には不満でもね。
公平・中立も怪しいもので、これほどまでに行政寄りで、権力の意向を忖度する国家機関は群を抜いているのではないでしょうか。そういえば軍事評論家気取りで沖縄県を負かしていた裁判官もいましたしね。
「
沖縄県が上告 不当判決に対する最高裁の姿勢が問われる」
えん罪となり再審無罪となった事件では、最初に「有罪」認定をした裁判官には人間的な「悩み」はあるんでしょうか。あるならば、是非とも聞いてみたい。
それとも黙りを決め込むことが裁判所への信頼されることになるとでも?
安倍総理に忖度する官僚の存在がクローズアップされましたが、裁判所の忖度はその比ではありません。捜査機関への遠慮などその典型でしょう。
千葉氏の意見を読んでいると、木谷明氏と同じ臭いがしてなりません。
「
岡口基一判事への懲戒 木谷明氏の見解にみる裁判官の品位の問題」
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