コメント
仮想店舗時代
営業自粛時の家賃を、店子からふんだくろうとした貸店舗大家と店子でトラブル続発です。
全館休業のショッピングモールが再開した時、全館休業開始日に遡って閉店した店は、恐らく休業中の家賃トラブルでしょう。
電通からピンハネされてゲットした地獄化給付金を、営業できなかった日の家賃に充てるのは筋違いですが、家賃が入らなければ大家は銀行への返済が滞り倒産です。
共産圏のデパート方式でショーケースに入った商品を売るだけなら、1000坪の大店舗は不要です。金券ショップ同様1坪の店で、商品は後日配達というネット商店方式なら、レジ袋不要になるもののコンビニは商売が成り立ちません。
全館休業のショッピングモールが再開した時、全館休業開始日に遡って閉店した店は、恐らく休業中の家賃トラブルでしょう。
電通からピンハネされてゲットした地獄化給付金を、営業できなかった日の家賃に充てるのは筋違いですが、家賃が入らなければ大家は銀行への返済が滞り倒産です。
共産圏のデパート方式でショーケースに入った商品を売るだけなら、1000坪の大店舗は不要です。金券ショップ同様1坪の店で、商品は後日配達というネット商店方式なら、レジ袋不要になるもののコンビニは商売が成り立ちません。
しかし目に見えるスケープゴートを排除して環境問題やってる感出すってのはいつまで経っても変わらんね。
有料化してレジ袋の消費を何割か削減して社会全体のCO2排出量に対してどれだけ効果があるんだよ。
コンビニ各店のエアコンの設定温度を1度上げたほうがよっぽど効果あるんじゃね?
いやエアコンの設定温度上げるよりもエネルギー効率を高める為の努力に労力割いたほうが涼しくて袋も使い放題でみんな幸せじゃん。
店だって余計な手間も省けるし窃盗被害も減るし。
有料化してレジ袋の消費を何割か削減して社会全体のCO2排出量に対してどれだけ効果があるんだよ。
コンビニ各店のエアコンの設定温度を1度上げたほうがよっぽど効果あるんじゃね?
いやエアコンの設定温度上げるよりもエネルギー効率を高める為の努力に労力割いたほうが涼しくて袋も使い放題でみんな幸せじゃん。
店だって余計な手間も省けるし窃盗被害も減るし。
まあちょっと前のストロー狩りよりゃなんぼかマシかな
万引きは資本主義社会の病理
エコ袋につい考えてみたのですが、結論から申し上げますとこんな偽善的な事はやめた方が良いと思います。
1人1人のエコ意識を高めるではないかと考えるのかもしれませんが、世界が問題にすべきなのは地球環境と人間を含めた動植物に決定的な打撃を与えると思われる事象に対して具体的な改善を継続して行う事だと思います。
たとえば海洋まで汚染する原因となるプラスチックの使用を着実に減少させていく事の様な大きな問題。
そういう決定的に重要な問題に対して個人の小さなエコ意識に基づく満足が現実的な効果をもたらすかと言えば、むしろ逆であると考えます。
早い話がそれはむしろ環境汚染、環境問題において一人一人に手渡される免罪符の役割しか果たさないだろうという事です。
現代は資本主義の下で必然的な消費社会ですから、誰もがそれから逃れて生活する事は不可能な時代であると考えられています。
その中で小さなエコ的満足は自分の周囲だけの環境改善で事足れりという意識をもたらし、より大きく根本的な環境汚染から目をそらさせ沈黙させる。
実際、エコ袋で買い物して自分も小さくても環境に貢献していると考えている人達の内何人がプラスチックなどの汚染物質の大量生産に抗議して徹底的に反対したり、原発の稼働に絶対反対の姿勢を取って生活している、生活する事が出来るでしょうか。
大量生産と大量消費社会そのものに対して何の疑問も抱かず、あるいは少し疑問を抱きながら生活していたとしても、根本的に消費社会とそれを要求する資本主義社会に肯定的であるならば、エコ袋が如何ほどの効果的意味を持つと言えるのでしょう。
中世においても免罪符はむしろ悪徳の言い訳として停滞する社会において悪徳の支えとなった様に、偽善的なエコ意識が地球環境を破壊する資本主義消費社会の支えとなる事を恐れる問題意識こそ必要ではないかと思うのです。
1人1人のエコ意識を高めるではないかと考えるのかもしれませんが、世界が問題にすべきなのは地球環境と人間を含めた動植物に決定的な打撃を与えると思われる事象に対して具体的な改善を継続して行う事だと思います。
たとえば海洋まで汚染する原因となるプラスチックの使用を着実に減少させていく事の様な大きな問題。
そういう決定的に重要な問題に対して個人の小さなエコ意識に基づく満足が現実的な効果をもたらすかと言えば、むしろ逆であると考えます。
早い話がそれはむしろ環境汚染、環境問題において一人一人に手渡される免罪符の役割しか果たさないだろうという事です。
現代は資本主義の下で必然的な消費社会ですから、誰もがそれから逃れて生活する事は不可能な時代であると考えられています。
その中で小さなエコ的満足は自分の周囲だけの環境改善で事足れりという意識をもたらし、より大きく根本的な環境汚染から目をそらさせ沈黙させる。
実際、エコ袋で買い物して自分も小さくても環境に貢献していると考えている人達の内何人がプラスチックなどの汚染物質の大量生産に抗議して徹底的に反対したり、原発の稼働に絶対反対の姿勢を取って生活している、生活する事が出来るでしょうか。
大量生産と大量消費社会そのものに対して何の疑問も抱かず、あるいは少し疑問を抱きながら生活していたとしても、根本的に消費社会とそれを要求する資本主義社会に肯定的であるならば、エコ袋が如何ほどの効果的意味を持つと言えるのでしょう。
中世においても免罪符はむしろ悪徳の言い訳として停滞する社会において悪徳の支えとなった様に、偽善的なエコ意識が地球環境を破壊する資本主義消費社会の支えとなる事を恐れる問題意識こそ必要ではないかと思うのです。
免罪符!それだ!