裁判員裁判の死刑判決を破棄 高裁の役割を示す
- 2013/06/21
- 14:35
東京高裁は、2013年6月20日、一審東京地裁での裁判員裁判による死刑判決を破棄し、無期懲役としました。
この事件は、前科として2人(親族)を殺害、懲役20年となり、満期出所後の強盗殺人事件です。
被告人は無罪を主張しているので、えん罪である可能性も否定できなくもありませんが、ここではそれについては論じず、少なくとも死刑判決を破棄して無期懲役とした点について評価を加えたいと思います。
従前、最高裁は裁判員裁判の下した判決、特に量刑については原則として「尊重」するという姿勢を示しました。
裁判員裁判ですから、担当する裁判員によって、量刑に差が出てきます。
裁判員は抽選で偶然に選ばれるだけの人たちであり、それぞれの価値観によって判断するのですから、差が出て「当然」となります。
しかも現実の裁判員は、そもそもの辞退率(予め辞退を伝えて最初から候補者から除外される率)からは呼出の3~4割程度しか出頭していないことを考えると、裁判員をやりたい、やりたいという人たちの割合が高く、このような人たちはどちらかというと自分が裁くんだという人たちですから、量刑が重めに行く傾向があります。
それはさておいたとしても、やはり裁判員裁判では量刑には差が出てくるのは必然です。
しかし、量刑がバラバラというのは問題です。被告人の刑事裁判を受ける権利、適正手続に違反していることは明白です。
本来、同じような類型、事情の犯罪に対しての量刑は同じであるべきもので、だからこそ、最高裁は、量刑検索システムを導入し、裁判員裁判の段階で、その量刑の差が出ることを防ごうとはしていたいのです。
ところが、実際には、元裁判員の感想をみると、量刑システムはおかしいとか参考程度だと述べているように、自分の「感覚」でもって判断しているのが実情です。
「検察の求刑を上回る判決の是非」
「ますます自信を深める裁判員 松戸女子大生殺害死刑判決」
他方で、最高裁は、「裁判員裁判における第一審の判決書及び控訴審の在り方」を2009年(平成21年)に公表し、死刑か無期かの区分の指針については留保しつつ(死刑が生命刑であり、他の刑罰とは質が異なることが指摘されていますが、もちろん当然のことです。)、原則として第一審(裁判員裁判)を「尊重」する姿勢を示しました。
要は、裁判員裁判において量刑検索システムによってなるべく差は出ないようにするが、差が出てしまった場合には「尊重」するというものです。
2012年(平成24年)に公表された「裁判員裁判における量刑評議の在り方について」も基本的には、従前の見解を踏襲するものになっています。今回は、「裁判員裁判における死刑求刑事件への対応について」という考察が加わっています。それはあくまで死刑か無期か、過去の事案を整理したものに過ぎません。
さて、今回、東京高裁が裁判員裁判の死刑判決を破棄しました。
死刑制度の是非を別とすれば、死刑は極刑ですから、最終的なやむを得ない選択でなければなりません。
担当する裁判官や裁判員によって結論が異なるようなものではあってはならず、本来的に厳格な事後審査が必要な場面です。
中には、裁判員裁判という「民意」によって死刑判決が下されたのに、それを官僚裁判官が破棄するのはけしからんという意見もあるようですが、とんでもない暴論です。
裁判員の判断を「民意」などと言ってしまうこと自体、裁判員制度の仕組みや実態に対する無理解を露呈するものですが、要は、「死刑だ! 処刑してしまえ!」という自らの声を裁判員裁判が代弁するものと思い込んでいるわけです。
その意味では、まさに裁判員制度そのものが人民裁判、法ではなく感情だけで裁く制度ということでもあるのですが、それで死刑が乱発されてはおおよそ文明国家とは言えません。
別の案件でも最近は死刑判決に対して、被告人自身が控訴を取り下げる例が出てきています。
本来的に死刑判決の場合には、死刑制度を前提とする限り、自動上訴の制度を導入し、最高裁の判断を経由すべきなのです。
裁判員制度検討会では、四宮啓委員がこの自動上訴を主張されていますが(第15回議事録30ページ以下)、この見解には私も賛成です。しかし、井上正仁氏らがこれに反対し、米国では被告人側にも上訴の権利がないこととセットだからなんだと強弁していました。
中国では死刑の執行には最高人民法院(日本でいう最高裁)の再審査が必要とされていますし、米国がどうあろうと死刑という極限の刑罰を科すのに誤りがあってはならないのですから最高裁の判断を経ることは当然なのです。
「死刑判決が一審で確定することに問題はないか」
従来も原審において死刑判決が出されたものが、控訴審以降で減刑されたものもある以上、被告人が控訴しないから死刑でいいんだということにはなりえません。
根本的には裁判員が量刑を決めること自体が誤りなのです。
「発達障害者に対する差別判決 これは裁判員裁判だからでしょ」
高裁は、その役割を放棄することなく、厳しく原審の判決の是非を判断しなければなりません。今回の東京高裁の判決は控訴審の立場を貫いたものといえます。
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この事件は、前科として2人(親族)を殺害、懲役20年となり、満期出所後の強盗殺人事件です。
被告人は無罪を主張しているので、えん罪である可能性も否定できなくもありませんが、ここではそれについては論じず、少なくとも死刑判決を破棄して無期懲役とした点について評価を加えたいと思います。
従前、最高裁は裁判員裁判の下した判決、特に量刑については原則として「尊重」するという姿勢を示しました。
裁判員裁判ですから、担当する裁判員によって、量刑に差が出てきます。
裁判員は抽選で偶然に選ばれるだけの人たちであり、それぞれの価値観によって判断するのですから、差が出て「当然」となります。
しかも現実の裁判員は、そもそもの辞退率(予め辞退を伝えて最初から候補者から除外される率)からは呼出の3~4割程度しか出頭していないことを考えると、裁判員をやりたい、やりたいという人たちの割合が高く、このような人たちはどちらかというと自分が裁くんだという人たちですから、量刑が重めに行く傾向があります。
それはさておいたとしても、やはり裁判員裁判では量刑には差が出てくるのは必然です。
しかし、量刑がバラバラというのは問題です。被告人の刑事裁判を受ける権利、適正手続に違反していることは明白です。
本来、同じような類型、事情の犯罪に対しての量刑は同じであるべきもので、だからこそ、最高裁は、量刑検索システムを導入し、裁判員裁判の段階で、その量刑の差が出ることを防ごうとはしていたいのです。
ところが、実際には、元裁判員の感想をみると、量刑システムはおかしいとか参考程度だと述べているように、自分の「感覚」でもって判断しているのが実情です。
「検察の求刑を上回る判決の是非」
「ますます自信を深める裁判員 松戸女子大生殺害死刑判決」
他方で、最高裁は、「裁判員裁判における第一審の判決書及び控訴審の在り方」を2009年(平成21年)に公表し、死刑か無期かの区分の指針については留保しつつ(死刑が生命刑であり、他の刑罰とは質が異なることが指摘されていますが、もちろん当然のことです。)、原則として第一審(裁判員裁判)を「尊重」する姿勢を示しました。
要は、裁判員裁判において量刑検索システムによってなるべく差は出ないようにするが、差が出てしまった場合には「尊重」するというものです。
2012年(平成24年)に公表された「裁判員裁判における量刑評議の在り方について」も基本的には、従前の見解を踏襲するものになっています。今回は、「裁判員裁判における死刑求刑事件への対応について」という考察が加わっています。それはあくまで死刑か無期か、過去の事案を整理したものに過ぎません。
さて、今回、東京高裁が裁判員裁判の死刑判決を破棄しました。
死刑制度の是非を別とすれば、死刑は極刑ですから、最終的なやむを得ない選択でなければなりません。
担当する裁判官や裁判員によって結論が異なるようなものではあってはならず、本来的に厳格な事後審査が必要な場面です。
中には、裁判員裁判という「民意」によって死刑判決が下されたのに、それを官僚裁判官が破棄するのはけしからんという意見もあるようですが、とんでもない暴論です。
裁判員の判断を「民意」などと言ってしまうこと自体、裁判員制度の仕組みや実態に対する無理解を露呈するものですが、要は、「死刑だ! 処刑してしまえ!」という自らの声を裁判員裁判が代弁するものと思い込んでいるわけです。
その意味では、まさに裁判員制度そのものが人民裁判、法ではなく感情だけで裁く制度ということでもあるのですが、それで死刑が乱発されてはおおよそ文明国家とは言えません。
別の案件でも最近は死刑判決に対して、被告人自身が控訴を取り下げる例が出てきています。
本来的に死刑判決の場合には、死刑制度を前提とする限り、自動上訴の制度を導入し、最高裁の判断を経由すべきなのです。
裁判員制度検討会では、四宮啓委員がこの自動上訴を主張されていますが(第15回議事録30ページ以下)、この見解には私も賛成です。しかし、井上正仁氏らがこれに反対し、米国では被告人側にも上訴の権利がないこととセットだからなんだと強弁していました。
中国では死刑の執行には最高人民法院(日本でいう最高裁)の再審査が必要とされていますし、米国がどうあろうと死刑という極限の刑罰を科すのに誤りがあってはならないのですから最高裁の判断を経ることは当然なのです。
「死刑判決が一審で確定することに問題はないか」
従来も原審において死刑判決が出されたものが、控訴審以降で減刑されたものもある以上、被告人が控訴しないから死刑でいいんだということにはなりえません。
根本的には裁判員が量刑を決めること自体が誤りなのです。
「発達障害者に対する差別判決 これは裁判員裁判だからでしょ」
高裁は、その役割を放棄することなく、厳しく原審の判決の是非を判断しなければなりません。今回の東京高裁の判決は控訴審の立場を貫いたものといえます。
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